昭和の文化人に愛された「たみ」 

昭和の文化人に愛された「たみ」 

及川ヤスエさんの人生

福岡から上京してきた姉妹が紡いだ物語。
西荻窪の居酒屋「たみ」と国立の「関民帽子アトリエ(現atelier Seki / アトリエ関)」。 東京という文化の中心地に飛び込んで夢をかけた二人の物語がここにある。

西荻窪駅南口から銀座通りをすすみ、郵便局の反対側の路地をまがると「たみ」はある。この辺りの店は概してそうなのだが、昼間はひっそりと目立たないのが多い。夜になるとトマリギ的な雰囲気を醸して客を魅了する。たみはそのなかでも更にひっそりと佇んでいる。
入口の扉を押すと、視線は自然、お客の背を飛び越えてヤスエさんに向かってしまう。言葉を二、三交わしてから席に落ち着いて、おもむろに相客に挨拶をする。そんな雰囲気なのである。ふらりと店に入ってきてはおのおのカウンターに座って一人酒を傾けながら、及川さんと掛け合い話、と思うと隣、はたまた遠く離れた席とも飾ることなく議論に花を咲かせる。相応しくない客はそこにはいない。

平成二四年の桜の季節。ヤスエさんは引退した。

この街には多くの“西荻らしい”と云われる店が或る。「西荻らしいとは何か?」と問うと「温かそうでつめたいまち」そう答えが返ってきた。人間、文化芸術を縦横に織込んだ「たみ」は一体どういう場所だったのだろう。

「こけし屋はリベラルだけど、うちは左の方が多かった。みな神経質だけれど、優しい。人を傷つけたりしないけれど信念を持っている。広い街で寂しかったから」お酒の飲めない者が脚をむけても受け入れて、良心的な値段だったのはそのようなことだったのだろう。「博識ですね」とむけると「みなお客様が教えてくれた」そう返された。

北朝鮮新幕生まれ。敗戦の年、ヤスエさんは一七歳で38度線を歩いた。
祖父、金子さんが家族とは別の女性を連れて大陸に渡った。どんな汽車も泊まる駅で旅館を開き、家族を故郷から呼び寄せた。朝鮮の人を使用して生活の苦労のない少女時代を過ごしたという。女学校では教室の半分は朝鮮の人で当時は日本名を使用していた。勤労奉仕で松根油を取るための根を掘ったが、暫くして身体を壊し、慰問袋を縫うようになる。
玉音放送を聞いた時、音が大小して判らず、兵士も「がんばろうということだ」と鼓舞した。一二歳、としの離れた姉の民さんは、当時学校の先生をしていた。父はモダンボーイで玄関先に帽子を引っかけたり、ダンスを積極的に勧め、ホールで踊ったりした。お金が出来て、従兄弟も呼び寄せ学校を出してやったりもした。
大陸で育った強さが姉妹にはあった。

引き揚げは過酷なものだった。お金で案内を頼んだが裏切られたり、「休み」と言われて寝てしまい、気付いたら独りぼっちであった。泣いて何時間過ごしたかわからない。親が探しに来てくれなかったら売られていたかもしれない、と云う。

引き揚げ後、九州の久留米で洋裁の勉強を始めた。父の友人が「勉強するなら東京に行きなさい」と云うので一九四七年姉妹は東京へ出る。姉の民さんが皇后さまの帽子職人でもあった平田暁夫(二〇一四年八九歳にて死去)に師事する為、姉妹は西荻窪に住まう。そして修行中の生計を立てるために社交好きの民さんがガード下で「たみ」を始める。当時珍しい九州の本物の陶磁器を置く店として文化人が集まるようになった。しかし数年を経ずして芸術家、関頑亭氏と結婚。国立に引っ越してしまう。未だ二〇代で「たみ」を引き継ぐことになったお酒も飲めないヤスエさんを心配した常連客が“七人の守り人”となった。

店は何回か改装をしており、東京オリンピックの年に現在の場所に移転した。ガード下の店を改修した早稲田の有名な建築家、飯田さんの設計によるもので今とは全く異なる山小屋風。入口も現在とは逆の右側で二階にはヤスエさんが住んでいた。七人の守り人は心配して、飯田さんにかわるがわる質問をする。最初は「いらっしゃいませ」も言えなかったヤスエさんが、やめようと思わなかったのは、人と話すことが苦でなかったこと、お客様の存在が大きかった。「お客様に育てられた」と云う。
現在の店構えは同じく早稲田の建築家、安田与佐氏によるもの。リニューアルは設計だけでなく、暖簾から飾る作品に至るまで徹底して監修。照明は現在の場所に移ってから今日まで近藤昭作氏。のれんは古田重郎氏、マッチは大歳克衛氏のデザインであった。

ヤスエさんにとってお酒は二の次で奥様をなくされた方、境遇の話がしたい人、自慢話がしたい人、話が大事だった。お酒を出したくない客が来ると「出すお酒がないんですよ」云う。相客が「出してやってよ」と云ってもしらんぷり。外でお客が「ばかやろー」と叫んだりした。
そんなヤスエさんを支えたのはどんなご主人だったのだろう。及川さんはサラリーマンだったが義姉、及川道子さんは昭和一三年、二六歳で早折した著名な女優であった。家風がとても優しかったと云う。

ヤスエさんはいま、帽子アトリエ「関民」で姉民さんのお弟子さん達、約十名の作品に囲まれて店番をしている。帽子作家として有名になった民さんのお店は、国立駅から斜め右手にまっすぐ進む道を左に折れると、その趣或る佇まいが目に飛び込んでくる。
 「私だけの帽子」を探しにおとずれてみてはどうだろう。

http://shoan-sha.cocolog-nifty.com/nishiogishunjyu/2015/04/post-317a.html

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