たましいの微笑―絶筆―羽仁もと子女史

春が来た
幾度かなつかしそうに微笑しながら
春が来た。
その春の微笑を私は心で何度見ただろう
そうして年毎になつかしさが増す。
しかしいつでもいるように思った
父さんの微笑は見えなくなってしまった。
こういうはずではなかったと
幾度思いかえしても無駄である。

「はるかにあおぎみる
  かがやきのみくにに
 ちちのそなえましし
  たのしきすみかあり
 われらついに
  かがやくみくににて
 きよきたみと
  ともにみまえにあわん
 ………」

肉眼(め)に見えないものに
呼びかけるとき
返事のないのはきまりである。
いま一度微笑を見ようとするのは
無理なねがいである。

春の微笑はかたがきまっている
人の微笑にかたはない。
年々かわるばかりか一日の微笑すら
度ごとにちがう。
いまはかたちのない微笑をいつまでも見ようと
するのはまちがいである。
自然の微笑を愛するならば
どこまでもその微笑を研究しなければならない。
たましいの微笑を愛する人も
またその微笑の深さを知らなければならない。
冬の厳粛と春の暖さの美を知りたい人は
死とよみがえりの真実を知りたい人は
それらのことにみな敏感でなくてはならない。

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